ドムドムハンバーガー黒字化の立役者は39歳まで職歴ゼロの異色社長 〜 藤ア忍の履歴書
39歳・専業主婦からキャリアをスタートさせた藤ア忍さん。初めての就職先だったSHIBUYA109のアパレルショップや、
居酒屋のオーナーを経て、ドムドムハンバーガーの社長に抜てきされます。
夢中になって取り組んできたという仕事への向き合い方、ひとつひとつの決断の背景について深掘りしました。
日本初のハンバーガーチェーンとして知られ、多くのファンに愛されるドムドムハンバーガー。
1杯のカニをそのまま使った『丸ごと!!カニバーガー』などの独創的なメニューや、アパレルブランドとのコラボレーション、
遊園地・浅草花やしき内での出店、さらには自社ECサイトでオリジナルグッズが“爆売れ”するなど、従来のファストフード業界の常識に縛られない動きでも話題となっています。
これらの取り組みを主導しているのが、運営元であるドムドムフードサービス社長の藤ア忍(ふじさき・しのぶ)さん。
撤退が相次いで店舗数が激減し、一時は「絶滅寸前のチェーン」とまで呼ばれていた状態から再建を進め、2021年3月期には初の黒字化を成し遂げました。
しかし当の藤アさんは「私は企業再生のプロでも優秀なビジネスパーソンでもない」と語ります。
確かに、その経歴は異色と言っても差し支えないでしょう。
39歳まで専業主婦として過ごし、SHIBUYA109のショップ勤務で初めて社会人となり、小料理店でのアルバイトを経て自ら居酒屋を開業。
そして入社から9カ月という異例のスピードでドムドムフードサービスの社長に就任。
こうした挑戦のほとんどは「必要に迫られてのものだった」とも話します。
ドムドムハンバーガーの再生と快進撃を支える経営観はどのようにして生まれたのか。
藤アさんが歩んできた道のりを聞きながら、一つひとつの決断の背景にあった思いを探ります。
藤ア忍さんの履歴書
藤ア忍さん:1966年生まれ。東京都出身。政治家の妻として39歳まで専業主婦を務めるも、
2005年に夫が病に倒れ、生活のためにSHIBUYA109内のアパレルショップ「MANA」で店長として働き始める。
5年間で売り上げを倍増させる成果を上げるものの、オーナーの経営方針の変更により退職。
その後は新橋の小料理店でのアルバイトを経て、2011年に居酒屋「そらき」を開業。
料理の腕を常連客に見込まれ、2017年にドムドムハンバーガーのメニュー開発顧問に就任。
『手作り厚焼きたまごバーガー』をヒットさせた後、正式にドムドムフードサービスへ入社し、わずか9カ月後に代表取締役社長就任。
『丸ごと!!カニバーガー』などの新商品で話題を呼び、同社の再建と業績拡大を進めている。
2021年にはテレビ朝日系『激レアさんを連れてきた。』出演でも話題に。著書に『ドムドムの逆襲 39歳まで主婦だった私の「思いやり」経営戦略』(ダイヤモンド社)。
──藤アさんは短大を卒業してご主人と結婚され、24歳でお子さまが生まれたと伺っています。
39歳からキャリアがスタートしたとのことですが、それまで働いた経験はなかったということでしょうか?
はい。39歳で初めて就職するまで、ずっと専業主婦でした。専業主婦だからキャリアが空白になるとは思いませんが、それまでの私は大きな転機のない日々が続いていましたね。
当時の私は墨田区の区議会議員を務めていた夫に寄り添い、歩幅を合わせて歩いていました。
私の父もまた都議会議員を務めていて、当時は実家に父と夫の議員事務所を置いていたんですね。
都議会と区議会で、2年に一度は選挙があるという状況だったので、家の中はいつもせわしなくバタバタしていました。
そんな環境における私の役割は、家族の衣食住をしっかりと守ること。
食事を三食とも手作りするのは当たり前だし、夫のスーツをこまめにクリーニングに出したり、靴をピカピカに磨いたりするのも私の仕事です。
自宅は夫の関係者や地元の方々がしょっちゅう出入りする場所でもあり、来客をもてなしているうちに時間があっという間に過ぎていくような毎日でした。
──その頃の藤アさんは、ご自身が外に出て働くことはまったく想定していなかったのでしょうか。
もう、まったく。子どもの頃から将来の夢が「お嫁さん」でしたからね。短大を出て、
政治家を目指していた夫と出会い結婚してからは、「この人のステップアップをずっと支えていく」ことが夢に変わりました。
だから自分が外で働くことになるなんて一切考えていなかったんです。
──しかし39歳のときに初めて、ブティックの店長として外で働くことになります。
このタイミングでキャリアグラフは大きく落ち込んでいます。
2005年に夫が選挙に落選し、それから心筋梗塞を患ってしまいました。
政治家は基本的に選挙で負けると収入が大幅にダウンします。他の仕事をするにしても、体調が戻らなければ満足に働けません。
じゃあどうするのかと考えれば、私が働くしかありませんでした。
「この仕事をしてみたい」とか、「こんなことに挑戦したい」といった思いは皆無です。それまではずっと家庭の中にいたので、
外で働くことには不安もありましたが、四の五の言わずにやるしかないという状況でした。
──ブティック「MANA」で働くことになった経緯は?
ショップオーナーの娘さんと私が、小学校時代からの同級生だったんです。
仕事を探していた私に「母が後継者を探しているから店長としてやってみない?」と声をかけてもらったことがきっかけでした。
──「MANA」は若者が集まるSHIBUYA109内のショップですよね。
若い世代をターゲットにした場所で働くことに抵抗はありませんでしたか?
私は初等部から短大まで青山学院(東京都渋谷区)に通っていたので、渋谷という土地には親近感がありました。
むしろ「大好きな渋谷で働けるのはうれしいな」という感覚でしたね。
ひとつ覚えていることがあって、MANAで働こうと決める前に1冊の雑誌を買って読んだんですよ。
誌面では109のショップが特集されていました。そこに登場する若い女性たちがとてもお洒落で、かわいくて。それまでの私は政治家の妻ということもあって、落ち着いたトラッドな服装が基本だったんですよね。だからこそ109に集まる女性たちのファッションに心を惹かれたのかもしれません。「刺激的で面白そうな場所だな」と、ワクワクしながら入社しました。
──実際に働き始めてみて、いかがでしたか。
率直に言って、当時の店舗は素人の私から見てもパッとしない状況でした。
オーナーから「お店のことは任せる」と言われていたので、自分の目で見て、変えるべきだと思ったことはどんどん変えていきました。
例えば店内には納品時の段ボールがそのまま置かれ、整理が行き届いていませんでした。
「きれいにすればもっとお客さまが来てくれるかもしれない」と思って、徹底的に掃除したり、汚れていた試着室のカーテンを交換したり。
必要だと感じたことは即、実行に移していましたね。
──藤アさんがそうやって能動的に動けたのはなぜでしょうか。
普通なら、社会人として初めて働く際には受け身の姿勢になってしまいそうですが……。
一つは、オーナーが売り上げノルマなどで縛ることなく、自由にやらせてくれたおかげだと思います。
加えて言うならば、そのときの私は働いた経験がないからこそ何の刷り込みもなく、店舗の現状を冷静に観察できたのかもしれません。「汚いからきれいにしよう」と考えるのは当たり前のことだと思いますが、ショップで長く働くスタッフも、オーナーも、そこには気が回らなかったんですよね。
新鮮な視点で店舗を改善していった結果、最終的には働いた5年間で売り上げを倍近くまで伸ばしました。
──5年で売り上げ倍増という成果には驚かされます。MANA入社の翌年から、キャリアグラフもどんどん上向きになっていますね。
とはいえ、明確な見通しを持って結果を出していったわけではないんですよ。
分からないことばかり、戸惑いばかりの中で、それらを解決するために一つひとつ学んでいっただけ。
そうした仕事のスタイルは今も変わっていません。
私はちゃんとした経営を学んだことがないので、MANAの店長として数字を追いかける方法は自己流でした。
「今日はどれだけ売れて、仕入れはいくらで、経費はどのくらいで……」といった数字を、自分で作ったExcelの表に入力していたんです。
思い出すと笑っちゃうんですけど、それは「Excelの形をした手書きの表」なんですね。
表計算も関数も何も分からないから、数字だけ入力したら、あとは自分で電卓を叩いて計算していました(笑)。
そんなやり方でも、日々数字を確認していると見えてくるものがありました。
「この時間帯は売り上げが少ないからシフトを組み替えた方がいいな」とか、「無駄な経費を見直して別のところにお金をかけた方がいいな」とか。
──スタッフのマネジメントではどのような工夫を?
工夫と言えるようなものではないかもしれませんが……しっかりコミュニケーションを図るという、人としての基本を大切にしていました。
そうやって年代も考え方も違うスタッフと交流していくうちに、私の中にあった「人はこうあるべき」という概念が崩れていったように思います。
初等部から私立の学校に通い、いわゆる「良家のお嬢さんやお坊ちゃん」たちの中で青春時代を過ごし、大人になってからは我が子も私立に通わせている。
そんな私にとって、109のショップで働くスタッフはこれまでに付き合ったことのないタイプの人たちでした。
でも109という場所では、彼女たちの方が場のカルチャーをよく理解しているし、私としてはリスペクトすべき相手なんですよね。
彼女たちからはたくさんのことを教わりましたし、私がかつて抱いていた「人はこうあるべき」という概念とは違っていても、素晴らしい人はたくさんいるのだと知りました。
それは彼女たちにしても同じだったのかもしれません。
最初は「このおばさん、アパレルの経験もないのに入ってきて何をするつもりなんだろう」と怪訝に思っていたかもしれない。
だけど、私なりに一生懸命に考え、コミュニケーションを図ろうとしていることが伝わると、徐々に良い関係性を築けるようになったんです。
自分の中の小さな枠にとらわれず、フラットに人や物事を見ることで良い人間関係や成果を生み出すことができる??。
これは、後々にもつながる大きな学びとなりました。
──MANAで大きな成果を上げていた43歳のとき、ご主人が再び病に倒れました。
キャリアグラフはどん底まで落ち込んでいます。
夫は徐々に回復し、次の都議選に向けて再起を図っているところでした。ところが再び脳梗塞に襲われ、左半身が不自由になってしまいました。
その翌年には、オーナーの経営方針が変わったことでMANAを辞めざるを得なくなりました。
仕事には充実感を覚えていたし、まだまだやりたいこともあったので、このときは本当に悲しかったですね。
夫のこともあったので「ああ、人生最悪だ……」と落ち込みました。
とはいえ沈み込んでばかりはいられません。
家族の生活を支えていくには何とかして働かなければいけないということで、当時は自分自身で起業し、アパレル店舗を経営したいと考えていました。
ただ資金的な問題もあって、ひとまずは新橋の小料理店のアルバイトに応募してみたんです。
──飲食店は「つなぎ」のつもりで始めた仕事だったと。
はい。ほんの一時期だけお世話になるつもりでアルバイトを始めました。
子どもの頃から料理が好きだったし、専業主婦時代には三食全て手作りしていたこともあって、唯一の得意領域でもあったんですよね。
飲食店のキッチンならすぐに活躍できるだろうと思っていました。
そんな入り口だったのに、やってみると飲食店の仕事がどんどん面白くなっていったんですよね(笑)。
お店のレシピ通りに料理を作るのは楽しかったし、自分の実力を発揮できている感覚もありました。
それに、お客さまのことをよく見て、よく話を聞いて接していくと、アルバイトの私でもどんどん常連さんを増やしていくことができたんですよ。
私には、人が求めていることを察する力があったのかもしれません。
──アルバイトを始めてから5カ月後には、なんとご自身の店「居酒屋そらき」を開業しています。
この急展開には驚かされます。
きっかけは、勤めていた小料理店が入るフロアの斜め向かいの物件が空いたことでした。
その様子を見て、ある常連さんが「これだけお客さんを呼べるんだから自分でやってみたら?」と勧めてくれたんです。
しかも「出資するよ」とまでおっしゃっていただいて。
最終的に私は開業を決意するのですが、人様の厚意に頼って出資してもらうわけにはいかないと考え、自身で開業資金1200万円を借り入れることにしました。
──その決断を率直に「すごいな」と感じます。
自身で店を持つ、それも多額の借り入れを抱えて挑戦するというのは、とても勇気がいることだと思うのですが。
私にとっては必然的な選択だったんですよ。
当時の私は社会人経験がわずかしかない44歳。夫は脳梗塞で障害程度1級に認定され、息子は私立の学校に通っていました。
どこかの会社に正社員として雇ってもらえたとしても、この状況では2人の生活を守るだけの収入は得られないと思ったんです。
ある程度のまとまったお金を稼ぐためには、自分で起業するしかないと。
個人で1200万円を借り入れ、リスクを背負って起業するのは勇気がいることですが、そのお金は開業後にちゃんと仕事をして稼げば返していけるわけですよね。
小料理店で働かせてもらったおかげで私は飲食店運営の基本を学び、1200万円を7年で返済する事業計画を立てることができました。
目の前の生活費に困って右往左往するよりは、起業の方がよほどリアリティーのある道だと思いませんか?
──世の中では、逆の方向に考える人も多いかもしれません。
収入が下がるなら、その分だけ生活レベルを見直さなければいけないと。
借り入れをして起業することについても、「失敗したらどうしよう」という不安で動き出せない人の方が多い印象があります。
私は守りに入ることはまったく考えませんでした。何とかして起業することしか考えていなかったし、失敗するイメージもなかったんです。
自分1人で考えるのではなく、すでに起業している経営者の方、2人にも相談をしました。
すると口をそろえたように2人とも「自分がやりたいと思ったことは実現できるよ」と言って背中を押してくださったんですよね。
自分がやりたいと思ったことを実現する。振り返ってみれば私は、109のショップでもそうやって一つひとつの課題を解決してきました。
初めて外に出て働くことになったときも、起業したときも、感覚としては同じだったのかもしれません。必要に迫られて動いたという点でも同じですね。
──「そらき」開業後は、わずか1年で予約必須の人気店となり、藤アさんがイメージしていた通りの成功を収めました。
常連客を増やしていった秘訣はどこにあったのでしょう?
一人ひとりのお客さまに心を尽くすこと。それを肝に銘じていました。
そらきはカウンター6席と4人掛け席が3つの小さな店です。
1人で来店してカウンターにお掛けになる方の中には、黙々と食事を楽しみたい方もいれば、私としゃべりたい方もいる。
新しい友だちがほしくてカウンターに座る方もいるでしょう。お客さまのニーズは一人ひとり違うので、それを察するために心を砕いていました。
あとは「一生懸命にやること」ですね。お客さまに喜んでもらえる料理を一生懸命に考え、作って、運んで……。
私はいつも急いで動くから腕が火傷だらけでした。
そらきには109時代のスタッフもよく来てくれたのですが、「その腕、どうしたんですか!?」と驚かれました(笑)。
──そらきの経営に奔走する中で、49歳のときにご主人を亡くされています。
大変つらい出来事だったと思いますが、当時の心境はいかがでしたか。
元来、夫はとても活発で、「俺についてこい」といった風情の、いわゆる昭和の男でした。
ところが脳梗塞で左半身が思うように動かなくなってからは、家で私を待つ生活になってしまったんです。
リハビリに励み、杖をついて歩いたり言葉を話せるようになったりと改善も見られましたが、あの生活は彼にとって苦痛だったと思うんですよね。
永遠の別れを受け止められるようになるまでには、もちろん時間がかかりましたよ。
でも、あの苦痛から彼が解放されて、ようやく楽になれたのだと思えば、気持ちもどん底ではありませんでした。
──現在につながるドムドムハンバーガーとの出会いも、そらき時代だったとお聞きしました。
2017年5月のことでした。常連のお客さまから「ドムドムハンバーガーでメニュー開発のアイデアを提供していただけませんか」と声がかかったんです。
その方は、現在の株式会社ドムドムフードサービスの親会社であるレンブラントホールディングスの社長。
当時は専務です。企業再生を手がけるレンブラントグループがドムドムハンバーガーの再建に乗り出したタイミングでした。
ただの居酒屋のおかみにすぎない私に企業が声をかけてくれたのは、とてもうれしかったですね。
レンブラントグループの企業としての意気込みや、居酒屋のおかみを仲間に誘ってしまう専務(当時)の勇気に深く感銘を受けたのを覚えています。
私はそらきの経営を続ける一方で、顧問契約を結んでドムドムハンバーガーのために働くことを決断しました。
──それまでの藤アさんの決断は、「家族のためにやるしかない」という側面が強かったわけですよね。
ドムドムハンバーガーの仲間に加わることは、初めて「誰かのため」ではなく「自分のため」に下した決断だったのではないでしょうか。
まさしくそうだと思います。この2年前に夫が亡くなり、同じタイミングで息子は社会人になっていました。
それまではずっと家族のために働いてきましたが、そろそろ自分自身の可能性を追いかけてもいいのかな、と考え始めていた頃でした。
さらにこの時期は、そらきの経営においても変化が生じていたんですよ。
一緒にお店に立っていたのりちゃんとは109時代から10年来の付き合いで、当時は住まいもすぐ近く。
週に3?4回は一緒に飲んでいるような状況でしたが、そんなのりちゃんが「他の世界も見てみたい」と考えるようになっていたんです。
一方で私には、そらきとのダブルワークではなく、思いきりドムドムハンバーガーの仕事にのめり込んでみたいという思いが芽生えつつあって。
そこでのりちゃんに「実はドムドムハンバーガーからオファーをもらっているんだよね」と話してみました。
「私がそらきを離れるから、のりちゃんの好きなようにここを経営してみない?」って。
のりちゃんは「やってみたい」と言ってくれて、私はそらきの経営から離れることになりました。
不思議なことに、いろいろな物事のタイミングがピタリと重なっていて、私にとってはラッキーな状況が生まれていたんです。
普通だったら自分が作り上げた店を離れるなんて考えないのかもしれませんが、私の心はポジティブに次へと向かっていましたね。
──いよいよドムドムハンバーガーに全力を注げるようになったわけですね。
はい。やる気満々でしたよ。もともと私に依頼されていたのはメニュー開発会議に出てアイデアを出すことだけでしたが、
頼まれてもいないのに関西の店舗へ視察に出かけ、そこで見えてきた改善点をレポートにまとめて会社に提出しました。
レポートといっても大した内容ではありませんでしたが、私の情熱は伝わっていたと思います。
──なぜそこまでやろうと思ったのでしょう?
シンプルに、いただいた仕事には一生懸命応えたいじゃないですか。
新商品の開発はお客さまあってのこと。良いものを作るには、お客さまが何を求めているのかを知らなければいけません。
だから、店舗の現場へ出向いてお客さまの様子を見るのは当たり前のことだと思っていました。
ただ、実際に店舗を回ってみて気づいたのは、定められたマニュアルが徹底されていないという現実でした。
そのときは4店舗を回って同じメニューを頼んでみたのですが、ハンバーガーの組み立て方が店舗によってバラバラだったんです。
食べ物のクオリティーは味と舌触りと見た目の掛け合わせで決まります。
店舗によって組み立て方がバラバラだと、どんなにおいしいメニューを考案しても正しくお客さまに届けることができません。
会社へ提出したレポートでは、その現実もストレートに伝えました。
当時のドムドムハンバーガーが置かれていた状況を考えれば、それは無理もないことだったのかもしれません。
かつては全国400店舗を誇ったチェーンが38店舗まで減ってしまっていたんです。
飲食チェーンで店舗数が10分の1になっても企業として存続している例なんてほとんどありません。
店舗運営力の低下は必然だったのでしょう。
──経営者から一社員の立場になるのは大きな変化だったと思います。
新店舗の店長やスーパーバイザーを務める中で、藤アさんはどんなことを感じていましたか?
ドムドムフードサービスに入社できたことはとてもうれしかったので、キャリアグラフが上向きになっています。
でもこの後は下がっていくんです。会社員としての苦労をたくさん経験したからです。
まず私自身、社会人としてのスキルがほとんど備わっていませんでした。
50歳で中途入社してきたら、社会人としての基礎は身に付いていると思いますよね。
でも私は相変わらずExcelがよく分からないし、PDFをプリンターで出力するやり方も知りません。
それ以外にも、経費をどうやって精算するのか、稟議書はどう書けばいいのかなど分からないことだらけで、一つひとつの仕事を進めるのが本当に大変でした。
経営者と管理職の立場の違いによって戸惑うことも多かったですね。スーパーバイザーという立場になっても、
「これはやるべきだ」と感じたことを実行するのは簡単ではありません。
それまでは小さな組織にいて、目の前の汚れたカーテンを取り替えようと思えばすぐに実行できたけど、ドムドムハンバーガーのような規模の会社はそうではない。
物事を動かしていくためには段取りが必要なのだと、ここに来て初めて知ったんですよ。
──「もういいや、そらきに戻ろう」と思ったことは……?
正直に打ち明けると、一度だけ、どうしようもなく嫌になってしまったことがありました。
その夜はのりちゃんのところへ飲みに行って、うだうだと愚痴をこぼしていましたね。
そんな私に、のりちゃんは何て言ったと思います?
「忍さん、絶対に諦めちゃダメですよ。そらきに帰って来ないでください」って(笑)。
あの言葉がなかったら、私は踏ん張れていなかったかもしれません。
のりちゃんだけではありませんでした。
そらきの常連さんたちも、109時代の仲間たちも、そして息子も。私がドムドムハンバーガーで働くことを、たくさんの人が応援してくれていたんです。
だから簡単に投げ出せない。やる気を見失っている場合じゃない。
その翌日から、私は気合いを入れ直して課題と向き合いました。
当時の会社には経営陣に自分の意見を直接伝える場がなかったので、専務に電話して「私を役員にしてください」と訴えたんです。
──電話口の専務は驚いたのではないでしょうか。
「さすがにそれは無理だよ」とあきれていました。
まだ入社したばかりで何の結果も出していないのに、役員に引き上げることはできないと。
それはそうですよね。自分でも無茶なことを言っているのは分かっています。
でも、諦められませんでした。一社員の立場ではできない、本気で会社を変えるための仕事がしたかったんです。
きっと私は、悶々としたまま仕事をするのが嫌なタイプなんでしょうね。
やるべきことが明確なのにまっすぐに向かっていけない状況、ブレーキをかけられてしまう状況が耐えられないのだと思います。
その後も専務へメールを送ったり電話をかけたりと、行動し続けていました。
──その後の会社の決断を知って驚かない人はいないと思います。
レンブラントホールディングスの経営陣は、入社9カ月の藤アさんをドムドムフードサービスの代表取締役社長に指名しました。
ものすごい展開が待っていたのですね。
専務に電話で直訴してから約2カ月後、レンブラントホールディングスの経営陣に呼び出されました。
本社で私に告げられたのは「ドムドムフードサービスの取締役になってください。ついては代表取締役です」という辞令でした。
私自身も本当にびっくりしましたね。
情熱が伝われば役員に抜てきしてもらえる可能性があるとは思っていましたが、まさか社長を任されるなんて、想像もしていませんでしたから。
私にとっては大きな大きなチャンス。
課題解決策を意思決定し、やりたいことをまっすぐに実行できる立場です。
より一層頑張ろうと、身が引き締まる思いでした。
社長になったといっても、本社にこもっていては何の意味もありません。
最初の頃は「代表取締役社長兼スーパーバイザー」で、週のほとんどは店舗を飛び回っていました。
ドムドムハンバーガーはどこへ向かうべきなのか。お客さまにとってドムドムハンバーガーとは何なのか。模索し続ける日々でした。
──社長就任後の藤アさんは、外部イベントへの参加、アパレルブランドとのコラボレーション、
SNSで話題沸騰となった高単価商品『丸ごと!!カニバーガー』の発表など、新たな取り組みを続けています。
なぜ前例のないことに次々と挑戦できるのでしょうか。
「こだわらない心」があるからだと思っています。
その原点は109時代に、自分の中の「こうあるべき」という概念が崩れたこと。
人がどうあるべきかにこだわらなくなったのと同じで、私は「ファストフードはどうあるべきか」にもこだわっていません。
必要なのはドムドムハンバーガーのブランドを守り、育てていくことだけなんです。
新たなチャレンジを始めたばかりの頃は、ドムドムハンバーガーとは何なのか、私自身もよく分かっていませんでした。
なぜなら私たちの店舗はずっと、ショッピングセンターやスーパーの一角など、町場の小さな場所で営業してきたからです。地域の中で、限られた層のお客さまに守られてきたのがドムドムハンバーガーでした。
これまでと同じ規模感で、限られたお客さまのご意見だけを頼りに運営していくとなると、新たな可能性を探すのが難しくなります。
あえて前例からはみ出し、これまでは出会えなかったお客さまの心もつかんでいかなければならないのです。
そのコンセプトのもとで挑戦を続けた結果、SNSなどを通じて多くの方がドムドムハンバーガーの思いに共感してくれるようになりました。
──2021年3月期にはドムドムハンバーガーとして初の黒字化を達成し、大きな一歩となりました。
本当に大きな一歩ですね。これもコンセプトに基づいてやってきたことの結果だと思います。
自分たちの確かなコンセプトに沿って、素早く意思決定できる組織となりました。
コロナ禍においてファストフード各社は軒並み業績好調でしたが、それはデリバリーを強化したことが要因の1つです。
でもドムドムハンバーガーは店舗規模が小さくて、デリバリーに対応する機材もノウハウも持ち合わせていません。
この状態で無理にデリバリーへ対応したら、ドムドムハンバーガーが食べたいと思ってわざわざ来店してくれたお客さまへの商品提供が滞るかもしれない。
だから私たちはデリバリーをやらないと決めました。
その代わり、2?3人で一緒に食べられるセット商品「おうちでドムドムセット」の開発にいち早く取り組んだり、
ドムドムハンバーガーの秘蔵レシピをYouTubeで伝えたりと、私たちならではのアクションを起こしていきました。
当初は従業員を守るために作ったマスクもお客さまに注目していただくこととなり、迅速にECサイト開設を意思決定して販売開始。
このECサイトではさまざまなドムドムグッズを販売し、現在は1店舗の月商規模の売り上げとなっています。
課題だった店舗運営力でも着実に改善を重ね、以前ならできなかったことができるようになりました。
古い店舗のクレンリネス(清潔で衛生的な状態を保つこと)にはまだまだ課題が残っていますが、
正しいオペレーションを回していくという点で、現場のスタッフのみなさんは本当に頑張ってくれていると思います。
──お話を伺う中で、さまざまなことに夢中で挑戦し、本気で取り組んできた藤アさんの姿が印象的でした。
藤アさんは「夢中になる」ことにどんな意味があると思いますか?
人は、物事に夢中になればなるほど目や耳が敏感になり、想像力がたくましくなるものだと思っています。
私たちの仕事で言えば、お客さまの動きや思いを察しやすくなるということです。
例えば居酒屋さんや小料理屋さんへ行くと、とても忙しそうに料理を作っているかと思いきや、店内の様子にやたらと敏感な大将がいたりしますよね。
フロアスタッフが気づけないでいるお茶の交換タイミングなども察知して、的確に指示を出している。
仕事に夢中になっているからこそ、感覚が鋭敏になるのでしょう。
現在の私の仕事でも、夢中になることは大切なんですよ。新しいことを始めようとすれば反対意見も生まれます。
何とか通したいと思っている案について、取締役会で厳しい指摘を浴びることもある。そんなときも、夢中になっていると想像力が研ぎ澄まされるんです。「きっとこんなことを言われるから、こんなふうに切り返そう」って(笑)。
振り返れば、私のキャリアで壁を乗り越えられたときには、常に目の前のことに夢中になっている自分がいましたね。
──夢中だったからこそ、かつては気づけなかったことがあるかもしれません。過去のご自身にアドバイスしたいことはありますか?
私は……「そのままでいいよ」と言いますね。これまでの歩みで培った全ての経験が今につながっているので。
悲しいことも悔しいこともたくさんありましたが、何もかも私にとっては必要だったと思います。
今回、自分自身のキャリアグラフを作ってみて気づいたことがあるんですよ。
私は現時点に至るまで、キャリアの状態が最高潮に達したと感じる瞬間はありませんでした。
なぜかというと、私はいつも不安を感じているんです。自分のキャリアに対する不安ではありません。
見えている課題に対してどんな手を打っていくべきなのか、本当にその課題を解決できるのかという不安です。
109のショップ運営を任せてもらったときも、自分で居酒屋を開業したときも、
そしてドムドムフードサービスの社長に就任したときも、その時々に感じた不安と向き合い、突破していったときに私のキャリアグラフは上昇しています。
だけど突破した先に新たな課題が見えてきて、また不安を感じているんですよね。
私はこれからも「現状で100パーセント満足だ」と感じることはないでしょう。
でも、そんな自分のままで構わないと思っています。
私はきっと、常に不安を抱えているからこそ、常に夢中でいられるんです。
ぼくらの履歴書 より