フリーアナウンサー朝妻久実 (No.274)


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 肩書きも経験も何もない、大学を出たばかりの私に仕事がないのならば、まだ受け止められただろう。 「元局アナ」という肩書きを持ち、テレビもリポートも生放送も場数を踏んできた私は、東京でのオーディションに1年間落ち続けたのだった。

多少なりとも経験を積んだ身でオーディションに落ち続ける現実。 私は……そんなにも魅力のない人間なのだろうか?経験も肩書きもあるのに仕事の取れない日々。 アナウンサーとしての自信の揺らぐたびに、私という人間の存在価値そのものが脅かされるようだった。

もちろん、仕事がないということは収入も得られない。アルバイト生活に逆戻り……。 ただのアルバイト生活ではない。肩書きと実績という、ある意味余計なプライドを身につけた状態で、昔と同じアルバイト生活に戻ってしまったのだ。 「あんな遠い地に独りで飛び込んで……1年やりきった私が、昔と同じ事を。何やってるんだろう……」 経済的な余裕のなさは、精神的な余裕のなさに拍車を掛ける。 目標も希望も、何かに挑戦する意欲さえ持てなくなった。こんな私は何の役に立っているのだろう?

「久実は、けっきょく何がやりたいの?何が届けたいの?」 自暴自棄になっていた私にある日掛けられた言葉。

「………チアが」 その時、私の頭に浮かんだのは、大学時代のチアリーディング部で輝いていたころの私の姿だった。 あんな自分になりたい。チアリーディングをやっていたころの自分に戻りたい。 「チアが、やりたい」

齊藤彩という名前を教えてもらった。 新宿駅西口の路上で、誰にも頼まれていないのにたったひとりで道行く人を応援するチアリーダーだという。 何だそれ!?すぐにネットで調べた。誰にも呼ばれず頼まれず……何だこれ。気になる。気になり過ぎる!!

そんな時、大学を出てすぐに仕事をさせてもらったコミュニティラジオにひとつ枠があると言われた。 出戻りのようでカッコ悪いと思ったけれど、仕事もないなかで声を掛けてもらえる有難さに気づき、意を決して番組パーソナリティとして古巣に戻ることに。 “新宿のひとり路上チア”の女性が気になるということを、そこでの仕事の合間にポロっと漏らした。すると、 「齊藤彩さんなら、このあいだうちの番組にゲスト出演してくれたよ」

局でもらった番組の録音音声を貪るように聴いた。 勤めた会社に馴染めず辞めてしまった過去の自分のような、下を向いて歩いているサラリーマンを応援しようと、ある時思い立って新宿西口でチアを始めたのだという。 「最後に、何か告知はありますか?」 番組の最後に掛けられたその質問に、齊藤さんはこう言うのだった。

「部員を募集しています」

私は、新宿駅西口にいた。

「本当に来るのかな……?」 物陰に隠れて覗く私の視界に、その人は飛び込んできた。 スピーカーの電源を入れ、リズムに合わせてサマーコートのボタンを外し、勢いよく脱ぎ捨て………

「ああ……チアだ………!!!」

大学時代の記憶がよみがえる。一番輝いていたころの私の姿が。 自分自身楽しく踊りながら、「ありがとう」「元気をもらったよ」と言われ、周りも自分もしあわせにできていたころの私の姿が。

目の前で堂々と踊る彼女の姿が、あのころの私と重なる。 梅雨の日の早朝、新宿駅前の路上。重い曇り空を吹き払うほどに、彼女は光を放っていた。 気づけば私は、物陰に隠れながら、彼女と同じようにリズムを取っていた。 奇しくもその曲は、あのころの私が一番気に入り一番踊っていたのと同じそれだった。

パフォーマンスを終えた彼女に、私は涙ながらに駆け寄った。

2度目の東京暮らしに打ちひしがれていた私が「全日本女子チア部☆」に入部したのは、26歳の夏のことだった。


大切な事は、すべてチアに教わった


「できない理由を考えるより、やるにはどうしたらいいか、方法を考えるんだよ」 やると決めたものの毎日早起きできるか心配、と言った私に、齊藤さんはそう言った。

そうか!何かを成し遂げる人はこういうふうにモノを考えるのか。 それはさわやかな衝撃だった。それからはチアに限らず物事をそんなふうに考えるようになった。 練習を重ねて初めて路上でパフォーマンスを終え頭を下げた時、それまでに感じたことのない清々しさが心を満たしていた。

地道な事だった。毎日、毎日、毎日………。

ある年の冬のこと。パフォーマンスをしながらひとりの女性の視線を感じた。 さあ帰ろうかなという時、その中年女性が声を掛けてきたのだ。 「私、リストラされたのよ」 そうなんですね、と答える私たち。彼女は少し沈黙し、こう言った。 「でもね、しばらくあなたたちを見ていたら、私にも何かできるかもしれないって思えてきた」

数日後、私たちの踊る数十メートル隣に、通行人相手に靴磨きをする彼女の姿があった。

そういう目立った出来事は、あくまで目立った例であって、毎日あるわけではない。 それでも、これ以外にも目に見えないところで、私たちの地道な活動が 「私も何か」「一歩踏み出してみよう」と誰かの背中を押しているかもしれない、という何とも言えない充実感があった。

アナウンサーをしながら、朝チアも続けながら……旭川を出てずいぶん経っていた。 美しい空気、透明な水、おいしい食べ物……地元から離れて振り返ると、ふるさとの豊かさに改めて気づく。

「動物園だけじゃない、旭川の魅力を伝えたい!」 できない理由よりできる方法を考えるようになっていた私は、まず行動。旭川市役所に「観光大使になりたい」と手紙を送ると、門前払いされた。

では非公式でやろうと、古巣のラジオ局で持つようになっていたレギュラー番組内に「Go Fight 旭川!」というコーナーを立ち上げた。 手探りでしばらく続けると、番組のリスナーさんがSNSで旭川関連のいろいろなアカウントに私を紹介してくれ、旭川市の非公式キャラクターのアカウントとつながることに。 非公式なのに何千フォローというファンを持っている彼が、毎週コーナーに旭川に関するお便りを送ってくれることになった。

コーナーはどんどん盛り上がっていった。 旭川市の非公式アイドルや非公式ヒーロー、気づけばかの旭山動物園の飼育員さんにも協力いただけるようになっていた。

ラジオ番組以外でも、百貨店の北海道物産展の旭川コーナーでブースの人と仲良くなって撮った写真をSNSにアップさせてもらったり、 帰省したらキャラクターやアイドルやヒーローの“中の人”とオフ会をしたり、旭川の高校の同窓会で副市長に直訴したり。 思いつくかぎりの草の根活動を1年ほど続けたころか、2014年10月、晴れて公認の旭川市観光大使に就任!

「一番応援したい人が出来たから」と齊藤さんが「全日本女子チア部☆」を引退したあとも、私はひとりで朝チアを続けた。 齊藤さんの始めた事を、私らしいやり方で広げてゆこう。 ひとりで踊り、人を励ますだけでなく、 「おはようございます!」「お父さん、行ってらっしゃい!」などと道行く人に話し掛けて会話する“コミュニケーションチア”を確立していった。 そう、校内イベントでMCをやった中学2年のあの時のような……。

募集もしていないのに部員もずいぶん増えた。皆で朝チアをし、齊藤さん引退後に始めた出張チアもおこなっている。

自分で決めて自分で始めること。 やれない理由ではなくやるための方法を考えること。 続けること。 先人の始めた事を自分らしく展開すること。

朝チアは私に人生で大切な事を教えてくれた。 そして、誰かを応援することで私自身が勇気をもらうということを思い出させてくれた。

私は、生涯チアリーダーでありたい。そして、人を応援する文化を日本に根づかせたい。 誰かを応援することは、他者に力の与えられる自分を思い出させてくれる。自分は無力ではないと気づかせてくれる。 応援とは、ほかならぬ自分を奮い立たせ立ち上がらせてくれる行為だから。

「全日本女子チア部☆」の活動はもちろん、アナウンサーの仕事も旭川市観光大使の活動も同じおもいで続けている。 直接、間接問わず関わるすべての人に笑顔になってもらい、願わくば「私も何か」と一歩踏み出す勇気を届けるために。

あなたは無力じゃないよ。本当の力を忘れているだけ。 私があなたを応援します。踏み出す力を思い出したら、次はあなたが誰かを応援してみて!与えた何倍もの勇気や感動があなたに返ってくるから。

絶望の淵から私を引き上げてくれたチアの教えてくれた事。 これが、私のKeyPageです。



      Key Page フリーアナウンサー朝妻久実 より










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